当神社のご案内


御創建

度重なる火災で古記録がすべて焼失したため、残念ながら、御創建の年代は明らかではありません。現存する最も古い史料としては、御神宝の獅子頭に文明十三年(1481年)に社殿と獅子頭を修復した旨の銘がありますので、創建はこれ以前であると考えられます。

また、延喜年間(905年頃)に編纂された延喜式神名帳「注1」には、下総國千葉郡に「寒川神社」の記載が見えますので、これが当社であるとすれば、創建年代はさらに遡ることとなります。
(これについては、歴史学者や郷土史家等が様々に考察を行っておりますので、詳しくは「付録」の項でご紹介しまず。)

御由緒

sya2当社は、古くから海の神として崇敬され盛んに信仰を集めました。当社の沖を船で航行するものは「礼帆(れいはん)」といって帆を半ばまで下ろして敬意を示し、社前を馬で通行するものは必ず馬を下りて下馬の礼をとったと伝えられております。

当社の霊験あらたかさを伝える話として、獅子頭に関する言い伝えがあります。その昔、漁師の網に獅子頭がかかり、これを祀ったところ沖を航行する船の沈没が相次ぎました。これは獅子頭の祟りであろうと、当社社殿の下に石室を作って封じ込めたところ、船の事故がぴたりと止んだというものです。この獅子頭は御神宝として今も当社に所蔵されています。旧寒川村は佐倉藩領で、佐倉藩の年貢米を江戸に廻送するための御用港として、また一大漁業基地として、隣接する千葉町(現在の千葉市街)にも勝るとも劣らない賑いをみせました。寒川村領は現在の氏子町会となっている11ヶ町の他に、多数の飛び地を有しており、寒川神社は、その総鎮守として広く崇敬されました。徳川幕府からは社領として十石を寄進されました。

時代が下って明治に入ると当社は村社に列しましたが、寒川に魚市場が設置されたこともあり、千葉や寒川の魚問屋を中心とした旦那衆から盛んに信仰されました。神社に残る当時の大絵馬には魚問屋が屋号をつらね、寒川神社が海の神として篤く崇敬されていたことを伺い知ることができます。

この時代の寒川の象徴は、なんといっても神輿の「御浜下り」でした。白砂青松の出洲海岸に立つ大鳥居から、立ち並ぶ提灯の灯かりにあやしく輝く神輿が海中に渡御する様は、まさに圧巻の一語であったといいます。そして、この「御浜下り」こそが、海の神・寒川神社の神威を示し、漁師町寒川に生きる人々の誇りであったのです。

 

(注1:延喜式神名帳)

式とは律令国家の基本法規である律令格式の一つで、延喜式とは延喜年間に編纂された律令の施行細則です。古来は神々をお祀りすることが政治そのものでしたので、各国の国司がどの神社に参拝すべきかが定められていました。この延喜式に記載されている神社を「式内社」または「式社」といい、その神社が古くから祀られている由緒正しい神社であることのひとつの目安となっています。
下総國の項では11社が記載されており、香取郡の香取神宮の次に千葉郡寒川神社の記載があります。