寒川の歴史と伝承


寒川の言い伝え

千葉市に伝わる歴史や言い伝えに関しては既に千葉市をはじめ多方面から書籍が刊行されています。しかし、それらから全く欠落していて、いまや口碑にしか残っていないものもあります。寒川にも言い伝えを知る古老も次第に少なくなってきた今日、大切な言い伝えがこれからも長く伝承されるように、寒川に伝えられている歴史関係の言い伝えをまとめました。参考程度にお読みください。なお、既刊の書籍からの引用と口碑とは以下のように峻別しました。

・既刊書籍を中心にまとめた部分(黒字
・私が聞いた部分(青字

 

史跡

不寝見川

千葉市の歴史関係の書籍でまず見かけない代表ともいうべき伝承です。今はすでにどぶ川と化していますが、寒川に「ねずみ川」と呼ばれている小川があります。千葉寺町の千葉県神社庁の下の丹後堰用水から末広を流れ、JR外房線と京成ちはら線の高架下をくぐり、寒川町二丁目、三丁目を流れて、寒川三丁目と稲荷町の境で寒川旧道と国道16号とをくぐりぬけて、寒川舟溜に注いでいます。寒川の人はみな「ねずみ川」という名は知っていますが、なぜ「ねずみ川」というのかを知ってる人は多くないようです。これは、千葉にいくつか残る源頼朝伝承の一つのようです。治承四年(1180年)、石橋山の合戦に敗れた源頼朝が安房に逃れ、再起を図って房総を北上しました。千葉常胤は源頼朝に味方することをいち早くきめ、頼朝の使者に返答します。

言い伝えによれば、源頼朝を出迎えるため、千葉家の家臣がこの川にかかる橋のたもとで、頼朝の到着を寝ずに待ったそうです。これに由来して、寝ずに見る川、不寝見川(ねずみ川)という名前になったといわれています。私が小さい頃には、祖母から「いま『ねずみ川』と呼ばれている川は、本当は『ねずに川』といい、頼朝の到着を寝ずに待っていたから、そういう名前になったんだそうだ」と聞かされていました。しかし、寒川三丁目に「不寝見川公園」という公園があり、「ねずみ川」というのが一般的です。「ねずみ」か「ねずに」かは別として、頼朝伝承による命名であることには間違いないようです。

 

海津見神社

寒川二丁目と寒川三丁目には町の守り神として「海津見神社」という小さな社があります。(現在は双方とも自治会館に隣接してお祀りされていますが、寒川三丁目の方は、旧道沿いにありました。その隣の家はいまでも宮本という屋号で呼ばれています。) 寒川の古老の間では「りょうごん様」と呼ばれていました。いまは「かいづみ神社」と呼ぶ人が多いですが、海の神である綿津見命(わたつみのみこと)を祀った「わたつみ神社」というのが正しいものと思います。寒川は漁師の村でしたので、海の神である「海津見神社」は豊漁や海の安全を祈る村人の漁師たちから信仰されていました。

 

習俗

浦祭り

その「海津見神社」のお祭りが「浦祭り」です。現在は自治会館の中で形だけの集まりがあるだけですが、戦前まではきちんと行われていたようです。寒川二丁目の例を記します。
祭り当日、舟に太鼓を積んで沖に漕ぎ出します。沖には、舟の航行の目印になる「ぼんぎ」(航標)が立っていますが、一番に沖にある「一番ぼんぎ」に着くと、舟に積んである太鼓を叩きながら、「一番ぼんぎ」の周りを面舵まわりで3回周ります。そのときの太鼓の打ち方は独特な打ち方だそうですが、現在これを打てる人が残っているかどうかは不明です。周り終わると、その古い「ぼんぎ」を抜いて、新しいものと取り替えます。その後は、舟で太鼓を叩きながら都川を県庁付近まで遡ったそうです。橋からのぞく見物人に舟から水をかけたり、舟の中の酒がなくなると、平野屋(県庁付近にあった酒屋)に酒を買いにいったそうです。
その後、「りょうごん様」の宿の交代が行われました。「海津見神社」に伝わる古い帳簿の類が木の箱に納められており、この箱も「りょうごん様」と呼ばれて神聖に取り扱われていました。その「りょうごん様」の箱は、町内の「宿」と呼ばれる家が交代して預かることになっていました。もともと昔は町会の自治会館などは存在しませんでしたから、「宿」と呼ばれる家が町会の集まりの場所を兼ねていました。宿は、寒川二丁目の場合、町会を3ブロックに分けた「上」「中」「下」の各区域で何軒かが予め選ばれており、それぞれ交代で預かりました。「りょうごん様」をお預かりするときと、お返しするときは、町会の役員が揃って訪れて口上を述べたあと、宿が酒と肴で接待しました。「りょうごん様」がいる家が火事から免れたとこが何度かあったそうです。明治のはじめの寒川の大火のおりも、「りょうごん様」が家におられたおかげで、私の家は火事を免れたと、小さい頃に聞かされました。

 

おびしゃ

関東地方では各地で、的を射て豊作を占う「おびしゃ」(御歩射)とよばれる行事が多く行われていますが、寒川でも「おびしゃ」という行事がありました。ただ、現在は「おびしゃ」と称して町会の自治会館に集うだけで、昔の形態がどうっだのかは残念ながら伝えられておりません。

 

まんぜろく

「まんぜろく」(万歳楽か?)と呼ばれる子供たちの祭りが行われていました。子供らが宿とよばれる家に集まってから、子供たちだけで各家々をまわります。門口で「まんぜろく来たよ」と告げては菓子などをもらい歩き、宿に帰ってから、子供たちだけの祝いをしたそうです。

 

わかしやど(若衆宿)

明治政府によって青年団が組織化される以前、日本各地に地域の若い者は自宅から離れて寝起きを共にする若衆宿といわれる習俗があったといわれています。寒川でも、その名残かどうかは定かではありませんが、「わかしやど」と呼ばれる家が決められていて、青年団の集まりなどはその「宿」と呼ばれる家で行われたそうです。

 

さんが焼

近頃、千葉名物として魚料理店でみかける「さんが焼」をご存知でしょうか。鯵を包丁の刃でたたいて焼いたものです。味噌と一緒にたたいたり、大葉を巻いたり、貝殻に付けたりと様々ありますが、基本的には千葉県南部の海岸部に伝わる、鯵のたたきを焼いた料理です。この「さんが焼」という名ですが、むかし「さんが」と呼ばれていた寒川発祥の料理だからという話があります。残念ながら当の寒川では「さんが焼」という名も、鯵のたたきを焼くという料理自体も、現在では、私の知る限りでは伝わっていないようです。しかしながら、鯵のたたき自体は、寒川では古くからよく知られた料理だったようです。現在、一般の魚料理店で鯵のたたきを注文すると、鯵の細切りが出てくることがほとんどですが、寒川ではどの家も薬味などと一緒に包丁の歯で細かくたたいた、別名「なめろう」と呼ばれるものを指していました。この料理は、「鯵のさんが」とか「なめさんが」などと呼ばれることもあり、昔はしゃもじに付けて焼いたこともあったようです。そのほかに、寒川ではアサリをむいて、味噌と一緒に包丁でたたいた「たたき味噌」という料理が伝わっていますが、
 これも「さんが味噌」などと呼ばれることがあるようです。房州の人に「さんが焼」のいわれを聞くと、「千葉の『さんが』というところでできたからだよ」ということが多いです。「ばか貝」のことを「あおやぎ」と呼ぶのは市原市の青柳にちなむものですが、東京では「あおやぎ」と呼んでも千葉や市原では「ばか」としか呼びません。「さんが焼」もこれと同じ類かもしれません。小さい頃に、下総の人が上総の人をやじった俗謡で「上総者かよ あばらが足らぬ あばらどころか身が足らぬ」、それを受けて、上総の人が「上総どころか 下総のものは ばかが余って売りに来る」といいあったとよく聞きました。こうした俗謡や方言は良い例で、千葉の漁師町は近隣の内陸部よりも東京湾に沿った他の漁師町との文化の交流が多かったようだということを肌で感じることが多いです。寒川で漁に使う船には竈がついていて、簡単な煮炊きは舟でできたそうです。漁の合間に、味噌汁用に積みこんだ味噌と一緒に鯵をたたき、しゃもじに付けてあぶって焼いたのがきっかけで広まった料理かもしれません。さんが焼きも、東京湾沿岸の漁師文化の交流の産物と考えることができそうです。