寒川神社をめぐる式社論


[ご注意]

式社論については様々な議論がされております。
地域の信仰の対象である神社に学問的な批判を加える事は必要なことですが、ともすれば地域の崇敬者の心情を害してしまうことがあることを充分に考慮することもまた必要です。

本稿では、寒川神社の関係者であるという立場と学問的な記述を峻別するために、以下のような区別を設けました。

・出典を引用した場合の記載は緑色で記述します。
・筆者の個人的な意見は青色で記述します。
・その他の一般的記述や、通説として各書に掲載されている内容は黒色で示します。

また、漢字の表記についてはできる限り原典どおりの記載を心がけておりますが、パソコンによる表記の都合上、旧漢字は、常用漢字または平仮名で表記させていただきます。

 

式内社とは

古来は神々をお祀りすることが政治そのものでした。

そこで、国家の基本法規である「律」(刑法)、「令」(行政法)、「格」(補足)、「式」(施行細則)のうちの「式」に、国司が祭祀すべき神社が国毎に細かく定められました。
延喜五年(905年)~延長五年(927年)にわたって編纂された「延喜式」の巻9、10には、全国の官社2861社が国郡別に記載されています。

その「延喜式神名帳」に記載された神社を「式内社」または「式社」と呼び、その神社が古くから祀られている由緒正しい神社であることのひとつの目安となっています。

千葉市を含む千葉県北部は、当時でいう「下総国」に属しておりましたが、この下総国では、11社が記載されています。

下總國十一座 大一座小十座
香取郡 一座 香取神宮 名神大 月次新嘗
千葉郡 二座 並小 寒川神社 蘇賀比咩神社
匝瑳郡 一座 老尾神社
印播郡 一座 麻賀多神社
結城郡 二座 高椅神社 健田神社
岡田郡 一座 桑原神社
葛飾郡 二座 並小 茂侶神社 意富比神社
相馬郡 一座 みつち神社

しかし、式内社の中にも時代が経つにつれて、荒廃したり、祭神や社名が変わったり、あるいは同名の神社が複数できてしまったりすることも多く、延喜式所載の神社が現存のどの神社のことを指しているのかを特定することが難しい場合が多ヽあります。

このように、一つの式内社に対して複数の候補が存在している場合、その神社を「論社」と呼びます。

現在の千葉市は概ね古代の千葉郡の中に含まれていましたが、その千葉郡に記載されている2社のうち、「蘇賀比咩神社」は千葉市蘇我町鎮座の「蘇我比咩神社」であることにほぼ異論がありませんが、「寒川神社」については論社が2社存在します。

その2社とは、一方がこのホームページで紹介している千葉市中央区寒川町鎮座の寒川神社で、もう一方が船橋市三山鎮座の二宮神社です。以下、その内容について紹介します。

 

おもな式社論

では、現在のまでの式社論の変遷をご紹介します。

まず、江戸時代ですが、この時期には主に「寒川村にある」と考えられていたようです。
『香取私記』、『佐倉風土記』、『神名帳考証』には、ともに「寒川村にある」と書かれています。

しかし、個々にみてみると『香取私記』、『佐倉風土記』ではその論拠が明示されておらずただ「寒川村にある」とのみ書かれているだけです。
伴信友(※1)の『神名帳考証』も知人からの伝聞という形で記載されています。

さらに『神名帳考証』では「寒川村にある」と言いつつも、「寒川村にあるといっても、現在の寒川神社の方ではなく現神明町の神明神社であろう」としていて本末転倒(※2)になってしまっています。

よって、これらの説では「寒川村にある」と述べているものの、その根拠が不明快なため現在では有力な見解とはなっていません。

(※1)伴信友:[1775~1846]江戸後期の国学者。若狭小浜藩士。
(※2)神明神社は古来から「結城神明」と称されたように、その性格は単なる神明社(=天照大御神をお祀りするために伊勢神宮から勧請された神社)であると考えられます。式内社は、はるか上代からその土地に鎮座している神社であることが一般的ですので、比較的創建の新しい伊勢神宮からさらに御魂分けされた神明社というのは、通常は式内社ほどの古社であるとは考えられません。さらに、『神名帳考証』にいうように、現寒川神社よりも現神明神社の方が古いということになれば、現寒川神社が式内社である可能性はなくなります。

・『香取私記』
「寒川村にあり」

・『佐倉風土記』
「寒川村にあり」

・伴信友『神名帳考証』
「寒川村は天正年間までは結城と称せし所にて、千葉郡寒川村の属邑寒川新田というところに古社あり。今は神明と称すれども式内寒川神社なり。村人に中にて鎌取という役を選定して神事に預からしむ。神体は所謂御幣にして祭日には新たに調えて旧物は海の沖に持ち出して流すとなり。寒川の本邑にも神明社あれど、そは新田なるを後に勧請して祀れるなりとぞ」

(意訳)「いまの寒川村は天正年間(1573年~1592年/織豊時代)までは結城と呼ばれていた所で、寒川村に付属している寒川新田というところに古社がある。いまは神明社と呼ばれているが、それが式内寒川神社である。(中略) 寒川の本村落の方にも神明社があるけど、それは新田にある神明社をあとから御魂分けして移してきたものだということだ。」

上の諸説に次いで登場したのが清宮秀堅(※2)の『下總國旧事考』です。
その中の『下總式社考』において、式内寒川神社は現在の二宮神社であろうと述べています。
寒川神社に関する式社論を初めて論理的に考証したという点で画期的といえます。

これ以降の説は、概ねこの説を引用して二宮神社説の妥当性を述べており、それが現在に至るまで支持されて、一般的な見解となっています。

・清宮秀堅『下總式社考』

「寒川神社 小 千葉郡三山村にある二宮神社なるべし(三山は和名抄(※3)の山家郷の内と見ゆ)。社領十石(天正十九年辛卯十一月 別当祠官分領せり)。社の伝は 素盞鳴尊・奇稲田姫命を祭れりと云。毎年八月十三日湯立の神楽あり。此日祭日を卜い定め九月の内良日を撰み神事を行い丑未の年の七箇年目には取分て大祭事ありと云。祠官三山氏(他に社家廿二人あり)。別当を神宮寺と云(新義真言宗 吉橋村常福寺に属す)。氏子は千葉郡の内二十一ヶ村なり。

以下随時加筆中です。