御浜下り


江戸時代~昭和戦前まで

古来、千葉神社の祭礼において「御浜下り」という神事が行われていました。
これは、鎌倉幕府の重臣で下総の名族といわれた千葉氏が、一族の守護神として祀っていた妙見尊の祭礼として、千葉郷あげての大祭を開催したことに由来し、その創始は大治二年(1127年)と伝えられています。
その祭礼は旧暦七月十六日から二十二日の七日間にわたりましたが、その期間中の二十日に、妙見様のご加護によって豊漁を祈る寒川村の氏子の手によって「御浜下り」が行われました。

当時は遠浅だった出洲海岸の妙見洲(現在の出洲港 土木事務所付近にあった浅瀬)で、寒川の若衆の奉仕により神輿を海中に渡御したといわれています。

この「御浜下り」には「千葉舟」と「寒川舟(別名結城舟)」という舟形の山車を曳き出しました.。
当時の千葉は鎌倉に次ぐ関東第二の都市であったことから、それにふさわしい壮大な祭礼が行われていたと伝えられています。

 

昭和戦後から

御浜下り(昭和24年頃)

昭和二十四年頃の「お浜下り」の様子(寒川神社所蔵)

妙見様のお祭りに寒川の若衆が奉仕して神輿を海中に渡御させていた「御浜下り」は、時代が下って昭和の戦後に寒川神社が神輿を新調したのをきっかけに、寒川神社の例祭として行われるようになりました。

八月二十日深夜に行われていた、この「御浜下り」は、出洲海岸が埋め立てられる昭和三十年代後半まで行われ、寒川に生まれたものの誇りになっていました。白砂青松の出洲海岸に立つ大鳥居から、立ち並ぶ提灯の灯かりにあやしく輝く神輿が海中に渡御する様は、まさに圧巻の一語であったといいます。

特に有名なのは、「お化け神輿」といわれた大神輿です。
終戦後に寒川神社初代神輿を新調したときに「神社側が台寸で注文したものを胴寸と取り違えて製作した」という話が残るほどの大きな神輿でした。
「初渡御のときに、二百人の怪我人を出した」とか「寒川旧道で転回ができずに、民家の戸袋や塀を壊してやっと廻った」など様々なエピソードが残っています。

なお、この「お化け神輿」があまりの大きさと重量のために渡御できなくなったために代わって新調されたのが先代の神輿で、猪鼻山の千葉市立郷土博物館にあるものです。

また、出洲海岸に立っていた石の大鳥居は出洲海岸の埋め立てと同時に寒川神社に移されましたが、地震によって破損したため、破却してしまいました。

 

大太鼓

この頃には、若衆にとっての花形は神輿よりもむしろ太鼓でした。
揃い浴衣を片肌脱ぎにして花笠をかぶった若衆が、削り出した自慢の「ぶち」で力を競いました。

漁師町だった寒川の若者は、この太鼓の皮を叩き破ることを誇りとしていました。
年番の町会が太鼓の片側づつを占有し、どちらが早く太鼓の皮を叩き切るかを町内同士で競い合いました。

当時は若衆が多かったため、叩く順番も籤引きで、一回叩くと半日は順番が回ってこなかったといいます。
若衆はこの日のために一ヶ月も前から電柱や古タイヤを叩いて毎日練習したといわれています。